このホームページ内や、カタログにたびたび登場する用語、「障害」「知的障害」「障害児」という言葉は、現時点で一般的に使われている言葉として「やむなく」使用しているだけで、実際には、私を含めて「障害児」の親は、この「障害児」「障害者」という言葉がとても悲しい言葉と感じていると思います。「だって、この子のどこに『障』りや『害』があるの?」とだれしも思っているはずです。また、なによりこの「害」という字も響きも最悪です。
たとえば「障害児」の「害」を「愛」と入れ替えて口で唱えるだけで、ああ、なんと優しい響きだろう、と感じます。「障愛児」に語法的な意味はありませんが、それほど、この「害」という「音」が私達に大きな苦痛を味わわせていると感じます。
「障害児」の対語として使われている「健常児」という言葉にも強い違和感を感じずにはいられません。「健常児」という言葉を聞くたび、「健ではない」「常ではない」という対比的なイメージに傷つけられます。「健」と「障」、「常」と「害」を対比させるという行為の裡には、その間に対称線を引きたいという気持ちがどこかに感じられるのです。実際には、線などひけるはずもないのに。もちろん、障害児の親自身が「健常児」「障害児」という言葉を使わざるを得ない「使いたい用語がない」という状況もまた現実です。
「障害児」「健常児」に替わる「便利な」言葉があるのか?と叫ぶ「行政的便利主義者」がいるかもしれません。
以前勤めていた会社でこんなことがありました。
人事部に子供に障害のあることが分かった旨を届けた際、「『不具・廃疾』の欄に丸をしておいてください」と言われ、言いようのない怒りと涙がこみあげてきたのを覚えています。
その頃は、もう既に「精神薄弱」という言葉さえ、問題視されていた時代でしたから、会社のあまりの不見識に「言葉の暴力」を強く感じたものです。
今、全ての会社の書式に「不具・廃疾」「精神薄弱」の文字がないことを祈るばかりです。
その後「精神薄弱」が「知的障害」に徐々に置き換わって行ったので、「障害」という言葉の違和感は、当時それほど意識しませんでした。「精神薄弱よりはずっとましだなあ」という感覚だったでしょうか。
私の好きな表現で「Differently Enabled」という言葉があります。これは、「違った形で能力づけられた」という意味ですから、まさに、「確固たる個性」「異能」をはっきりと認めている点でも素晴らしい言葉であると思います。残念ながらこれに対応するピッタリの日本語を思いつきません。
私自身は、「先天的障害」と言われているものは、全て、髪の色や背の高さが違うのと同じような単なる「個性」でしかない、と強く思うのです。「健常」も「障害」もない、全てはシームレスな人間としての「個性」であると!
有限会社ストラトゲイト 代表
小林 整
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